氷室のライブ!

氷室はBOOWYのメンバーとして、82年にデビューしました。氷室の独特なヴォーカル・スタイルでタテのりビートと布袋寅泰による鋭いカッティング・ギターとともに、日本を代表するロック・バンドとなりました。しかし、氷室は人気絶頂の88年に、わずか6年で東京ドームでのライブを最後にBOOWYを解散しました。
その後、氷室はソロ活動をスタートし、BOOWY時代とは違うアプローチで、ソロ・アーティストとしての氷室を強烈にアピールしたのです。90年代に入ってからも、続々とヒットを打ち出していく氷室。93年に発表された「メモリーズ・オブ・ブルー」は、ポップ性のある作品で、160万枚も売れたアルバムとなったのです。
また、氷室は、98年に4年ぶりの全国ライブを開始し全13公演で、なんと21万人というライブ動員記録を氷室は樹立しています。
しかし、氷室の才能はこの音楽だけでは終わりません。氷室は本の出版も行っています。Don't Knock The RockであったりHIMURO DOCUMENT 1987-1988、FLOWERS for ALGERNON 、PAPARAZZIを出版しています。

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解散後の氷室

氷室が所属していたBOOWYは、1987年に絶頂期の人気を獲得していたはずですが、その年から頻繁に噂されるようになっていた解散という言葉と一緒に全国ライブを走り続けていました。
しかし、氷室はツアーファイナルの12月24日、渋谷公会堂でのライブのアンコールで、氷室は声を振り絞るようにしてバンドの解散を宣言したのです。正式な発表とは、その後にBOOWYのメンバーが買い取った新聞紙面上で解散公演の告知と共に解散が載せられたのです。その衝撃的なニュースは氷室ファンのみならず、BOOWYファンの絶叫はすさまじいものでした。
しかし、氷室は1988年の解散ライブから3ヵ月後の7月にシングルをリリースしたのです。ソロデビュー後の氷室は、最初のライブツアーでこそ、BOOWYの曲もやっていましたが、氷室にとってBOOWYそのものが厄介な存在になることもあったようです。何度ソロ活動として氷室の実績を作っても、過去のBOOWYは売れ続けていたので、再結成の噂が絶えないことに苛立ちを隠せない時期があったようです。
しかし、氷室は2004年8月22日の東京ドームライブで氷、封印していたBOOWY時代の曲を氷室のソロ曲と一緒に、5万5千人のファンの前で演奏したのです。

氷室のライブ動員数!

氷室の作詞家としての活動は、デビュー当初から女性作詞家を一切起用しておらず、BOOWY時代は詞を積極的に書いていましたが、ソロ活動後はほとんど詞を書かなくなっています。氷室自身が自分で作詞をしなくなったのは、「SCHOOL OUT」の詞の内容に影響されたファンが、「言うとおり学校を中退した」とする内容の手紙を送ってきたためで、氷室の歌詞の影響力について深く知ったためと後で述べています。
そんな影響を強く与えている氷室ですが、やはりライブではリピーターが多く、しかも氷室ファンは、男性のファンの方が断然多いのが特徴です。2007年のツアーにおいては、3月13日に行われたライブの一部を4月4日にiTunes Storeで限定発売を行いました。ライブ後わずか3週間でライブビデオとしてリリースするという試みは、日本人初です。
氷室は1993年に、アルバムを累計130万枚を超える大ヒットを記録しましたが、翌年、氷室は自律神経失調症と診断され、氷室自身の希望により家族とロサンゼルスに渡米したのです。しかし、ご存じのように、日本で氷室がライブコンサートを開けば驚くほどの数のファンが集まります。
ちなみに、様々な氷室のライブ動員記録ですが、2003年-約15万人、2004年-約19万人、2005年-約4万5千人、2006年-約10万人、2007年-約12万人…とてつもないライブ動員数です。

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